2011年05月01日
2011新任コーチ:#72 八木沢荘六
いつもご覧頂きまして有難う御座います。
久しぶりの更新となります。
本日から、2011年新入団選手の紹介をして行きたいと思います。
まずは、この方から。
#72: 八木沢荘六(やぎさわ そうろく)
投手コーチです。
生年月日:1944年12月01日
身 長 :171cm
体 重 :71kg
投 打 :右投・右打
出 身 :栃木県
血液型 :O型
■以下 Wikipedia より■
早稲田大学より1967年の第2次ドラフト1位で東京オリオンズに入団。
即戦力と期待されながら伸び悩むが、成田文男、金田留広、木樽正明、村田兆治の4本柱に次ぐ先発投手に定着。
1973年10月10日の対太平洋クラブライオンズ戦ダブルヘッダー第1試合(宮城球場)で完全試合を達成。
この試合は、元々は中継ぎ登板が多く、規定投球回に足りなかった八木沢に最高勝率のタイトルを取らせるべく投球回数を稼ぐために先発した試合だったという。
この後、八木沢は目論見どおり規定投球回に到達し、7勝1敗で最高勝率のタイトルを獲得した。
このシーズンの完投は完全試合の1試合のみ、完封に至ってはプロ入り7年目で初めてだった。
また、八木沢は元々ダブルヘッダーの第2試合に先発の予定だったが、第1試合に先発する予定だった村田兆治が寝違えて首を痛めたために急遽第1試合に先発することになったという。
完全試合の日はカウントボール3までいったケースは一度もなかった。
これは15回ある完全試合の中で唯一の記録である。
1976年には15勝、翌1977年には11勝をマーク。
1979年、近鉄バファローズのチャーリー・マニエルの顔面に死球を当て、マニエルは顎の骨を複雑骨折する重傷を負った。
マニエルが復帰した後、「和解」の場が持たれたが、故意にボールを当てたという疑念(ロッテ側は否定)を持っていたマニエルは八木沢と握手をしなかった。
同年シーズン終了後に現役引退。
引退後は、
1980年はロッテ投手コーチ、
1981年から1984年は西武ライオンズ一軍投手コーチ、
1985年は西武二軍投手コーチ、
1986年から1991年まで西武一軍投手コーチを務め、
1992年から1994年シーズン途中までは千葉ロッテマリーンズ監督を務めた。
1995年は横浜ベイスターズ一軍投手コーチ、
1996年はフジテレビ・ニッポン放送の野球解説者、
1997年から1998年は読売ジャイアンツ二軍投手コーチ、
1999年から2001年は阪神タイガース一軍投手コーチ、
2002年から2003年はラジオ日本解説者、
2004年はオリックス・ブルーウェーブ一軍投手コーチ、
2005年は四国アイランドリーグ巡回コーチ、
2006年から2007年は社会人野球の東京ガス投手コーチ、
2008年から2010年は東京ヤクルトスワローズ二軍投手コーチを務め、
2011年からはベースボール・チャレンジ・リーグ・群馬ダイヤモンドペガサスの投手コーチを務める
では、またお越し頂ければ幸いです。
久しぶりの更新となります。
本日から、2011年新入団選手の紹介をして行きたいと思います。
まずは、この方から。
#72: 八木沢荘六(やぎさわ そうろく)
投手コーチです。
生年月日:1944年12月01日
身 長 :171cm
体 重 :71kg
投 打 :右投・右打
出 身 :栃木県
血液型 :O型
■以下 Wikipedia より■
早稲田大学より1967年の第2次ドラフト1位で東京オリオンズに入団。
即戦力と期待されながら伸び悩むが、成田文男、金田留広、木樽正明、村田兆治の4本柱に次ぐ先発投手に定着。
1973年10月10日の対太平洋クラブライオンズ戦ダブルヘッダー第1試合(宮城球場)で完全試合を達成。
この試合は、元々は中継ぎ登板が多く、規定投球回に足りなかった八木沢に最高勝率のタイトルを取らせるべく投球回数を稼ぐために先発した試合だったという。
この後、八木沢は目論見どおり規定投球回に到達し、7勝1敗で最高勝率のタイトルを獲得した。
このシーズンの完投は完全試合の1試合のみ、完封に至ってはプロ入り7年目で初めてだった。
また、八木沢は元々ダブルヘッダーの第2試合に先発の予定だったが、第1試合に先発する予定だった村田兆治が寝違えて首を痛めたために急遽第1試合に先発することになったという。
完全試合の日はカウントボール3までいったケースは一度もなかった。
これは15回ある完全試合の中で唯一の記録である。
1976年には15勝、翌1977年には11勝をマーク。
1979年、近鉄バファローズのチャーリー・マニエルの顔面に死球を当て、マニエルは顎の骨を複雑骨折する重傷を負った。
マニエルが復帰した後、「和解」の場が持たれたが、故意にボールを当てたという疑念(ロッテ側は否定)を持っていたマニエルは八木沢と握手をしなかった。
同年シーズン終了後に現役引退。
引退後は、
1980年はロッテ投手コーチ、
1981年から1984年は西武ライオンズ一軍投手コーチ、
1985年は西武二軍投手コーチ、
1986年から1991年まで西武一軍投手コーチを務め、
1992年から1994年シーズン途中までは千葉ロッテマリーンズ監督を務めた。
1995年は横浜ベイスターズ一軍投手コーチ、
1996年はフジテレビ・ニッポン放送の野球解説者、
1997年から1998年は読売ジャイアンツ二軍投手コーチ、
1999年から2001年は阪神タイガース一軍投手コーチ、
2002年から2003年はラジオ日本解説者、
2004年はオリックス・ブルーウェーブ一軍投手コーチ、
2005年は四国アイランドリーグ巡回コーチ、
2006年から2007年は社会人野球の東京ガス投手コーチ、
2008年から2010年は東京ヤクルトスワローズ二軍投手コーチを務め、
2011年からはベースボール・チャレンジ・リーグ・群馬ダイヤモンドペガサスの投手コーチを務める
では、またお越し頂ければ幸いです。
Posted by がんばねっとG at 23:25│Comments(0)
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